教科書のデジタル化で思うこと

 

利点も数多くあるということは承知しているものの,私は教科書のデジタル化 (デジタル教科書の導入) に否定的な立場です。

今回のブログはなぜ私がデジタル教科書に賛成していないのかを,私が大学受験時に社会科選択科目 (日本史) の学習に取り組んでいた際の経験も踏まえてお話しさせていただこうと思います。

 

社会科・理科の各科は教科書を読み込んで理解することが学習の基本であり,教科書を蔑ろにして問題集をひたすら解くやり方は正攻法ではありません。

これは大学受験だけでなく高校受験においても同じことが言えますし,私が大学受験時に取り組んでいた日本史に関してはこれが顕著だと思います。

 

私は農学部の出身ですが,大学受験時に日本史の学習は全く苦ではなく,むしろ気分転換の位置づけで取り組んでいましたし,センター試験の日本史は満点でした。

写真は私が当時に愛用していた山川出版社の『日本史用語集』で,使い込みが激しく装丁も外れてしまっているなどボロボロです (見た目は汚いですがゴミではありません)。

ちなみに,写真には写っていませんが教科書はもっとボロボロです。

 

 

紙の教科書の良さは,何と言っても気軽に手に取れるところです。

私は問題を解いていて不明点が出てきたら,まずは教科書を広げ,そして図録・用語集も併用しつつその内容を振り返っていました。

 

「確か〇〇ページのこのあたりに記載があったよなあ」などと思い返しながら,山川の教科書をパラパラと捲る。

その際,調べたかった事柄・項目に関連する “別の情報” を読み耽ったり,または,関連はしないが “以前から気になっていた情報” を眺めることもできる。

一見して回り道と思える作業ではありますが,私はこれも学習の醍醐味だと思うのです。

 

併せて,紙の教科書を手にしてその重みを感じ取り,さらにはその分厚さを目の当たりにすると,受験に向けてどのくらいの分量を学ばなければならないかが一目瞭然です。

開いた教科書の背表紙を見て「まだ先は長いなあ…」とか「折り返しは過ぎた!」など,それが自分を奮い立たせる材料になることもあります。

 

デジタル教科書はそういった物理的な情報も,なんとなくでしか理解できません。

 

 

教科書をメインに図録と用語集を机上に並べて配置し,視点を変えながら学習に取り組む。

大学受験の社会科や理科の学習においてはこういう場面が多々ありますが,仮に教科書・図録・用語集が全てデジタル化されてしまったらどうなってしまうでしょうか。

 

手元にタブレットや PC が 1台しかない場合,小さな画面の中で教科書・図録・用語集の全てを開かなければなりません。

私のように視力のよくない人間にはタブレットや PC の小さな画面は正直きついですし,アプリや画面を切り替えつつ使用するならば紙媒体のほうが圧倒的に使いやすいことは言うに及びません。

 

また,デジタルの場合,その様式・形態にもよりますが,紙媒体のような使い勝手を実現できるでしょうか。

アンダーラインを引いたり,補足事項を書き込んだり,教科書の角を折ったり付箋を貼ったりという作業は,デジタルで似たような作業ができようとも絶対に同列には成り得ないのです。

 

 

先に述べたように,デジタル教科書にも利点があります。

 

具体的には,読み上げ機能や動画の再生といった学習支援機能をはじめ,教科書をデータとして持ち歩けるようになることで物理的に荷物を減らせるといった利点が挙げられます。

さらには,誤字や誤記があった場合に訂正が容易にできるなど,出版する側にも利点があります。

 

しかし,だからといって紙の教科書を減らし,徐々にデジタル教科書の割合を増やしていくという流れには危機感を覚えます。

今後も紙の教科書を基本としつつ,デジタル教科書も併用するくらいの位置づけが望ましいと私は考えます。

 

暗記や理解が必要な読み物の類,特に繰り返し読み込む必要のあるものは紙で,図録や資料集はデジタル。これならまだ納得です。